プログラムに掲載しきれなかった部分を含めた完全版です。
ピエトロ・マスカーニ(1863~1945)はイタリア西岸の港町リヴォルノに誕生。父は彼を法律家にしようとしましたが、音楽に強い関心を持った彼は、14歳の時に伯父の援助により、地元のケルビーニ音楽学校に入学。シラーの「歓喜の歌」を題材にした作品がミラノのコンクールに入選し、1882年にミラノ音楽院に進みました。そこで彼は「ジョコンダ」で有名なポンキエッリに作曲を師事。5年先輩のプッチーニも同窓でしたが、彼は勉学に耐え切れず音楽院を飛び出し、ミラノのダル・ヴェルメ劇場の管弦楽団で指揮者・作曲家としてのキャリアを積みました。1895年にはロッシーニ音楽院院長に就任。1929年にはトスカニーニの後を継いで、ミラノ・スカラ座の主席指揮者になっています。
作曲家としての成功は、楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の一幕物の懸賞オペラで、歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」が最優秀賞を獲得したことに始まり、1890年にローマで上演されたこの作品によって、マスカーニの名は一夜にして世界中に知れ渡るようになりました。
「仮面」は典型的なイタリアのコミックオペラであり、1901年1月17日に、ミラノ、トリノ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ヴェローナ、ローマの6都市にて同時初演されたものの、マスカーニが指揮したローマを除けばみな失敗に終わり、ジェノヴァに至っては最後まで上演されなかったと伝えられています。
本日演奏する序曲は、ロッシーニ音楽院でマスカーニに師事し、「交響的前奏曲」「夢の魅惑」などマンドリン音楽の名曲を残した、ウーゴ・ボッタキアリが編曲したものをベースとしており、KMCのみならず、マンドリン・オーケストラでは頻繁に演奏されています。
作曲者の鈴木静一(1901~1980)は、幼時よりオルガンや謡曲に親しんでいましたが、1911年に来日したイタリアオペラの第一人者で、マンドリンの名手で作曲家でもあったアドルフォ・サルコリとの出会いが、作曲家・マンドリニストとしての道を開かせました。父親の希望で入学した慶應義塾を中退してまでもサルコリの許に通い詰め、その後、1924年の処女作「山の印象」を皮切りに、優れたマンドリン曲を創作。1927年、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催の第1回マンドリン・オーケストラ作曲コンクールで「空」が1位なしの2位、翌年の第2回コンクールでも「北夷」が1位なしの2位を獲得するなど、大正から昭和にかけてのマンドリン黄金期に貢献しました。
戦中・戦後には黒澤明監督の名作「姿三四郎」をはじめ「次郎長三国志」など数多くの映画音楽や流行歌を手掛け、しばらくマンドリン界からは遠ざかりましたが、親友であった指揮者、小池正夫の逝去に寄せて、翌1965年に追悼曲カンタータ“レクイエム”を作曲したことを契機に、マンドリン音楽への復帰を表明しました。その後は、十数年間にマンドリン・オーケストラ作品を次々と発表し、1980年に亡くなられた後も、多くのファンに愛されています。
これまでKMCでは、鈴木静一の作品を演奏することがありませんでしたが、本日、氏の代表作のひとつである交響詩「失なわれた都」を取り上げ、新しい扉を開けることとしました。
この作品には、作曲者自身による“曲想”が記されており、演奏前に語られることが慣例となっていますが、これとは別に、1969年6月30日発行のGMO機関紙「フレット」に、“私の近作について”というタイトルで掲載された鈴木氏の文章を抜粋し、ここに紹介させていただきます。
交響詩「失なわれた都」(1969.Jan.)
昨年初夏、九大MC部員の案内で、太宰府都府楼遺跡を見物し、太宰府が〈天神さまだけではない〉ことに気付き強い感動を覚えた。そして小学生時代、軍国主義でたたき込まれた太宰府の波乱多い成り立ちに思いを馳せ、久しぶりに湧き上がる制作欲にゆさぶられた。その夜、旅宿で思いつくままに書きとめたモテイヴは全部、なにか、激しい感情を含むものばかりで、それをどう大宰府に結びつけてよいのか戸迷った。
私がその原因が、防人の聯想ではないかと考えたのは、帰京してからであつた。しかし私の感念の中の“防人”は、その軍事的の動行ではない。遠い天国の詩歌の中に謳われた“防人”である。ならば、父を・夫を…そして子を、戦の場に送る女の悲哀である筈である。
大いに迷ったが、結局太宰府でつかんだ楽想のままに書き始めた。
3/4 Allegro Frioso 結果的にはこれが“失なわれた都”の主題となったが、書いている時の気持では、表題を“防人”とするつもりだった。その後、防人の和歌を調べるつもりで万葉集を手にした時、あることを思い出した。それほ、京都の仕事をしていた頃、よく歩いた飛鳥でのことである。
なだらかな丘のつらなる飛鳥路の、のどかな麦畑などを歩いている時、不意に説明しようのない“不安感”に襲れることがあつた。言うまでもない。かつての飛鳥路を中心に続出した天皇一族の、血で血を洗う相剋の舞台であった飛鳥路である。〈血なまくさい聯想もうかがえるだろう〉と私なりの解釈で済ませたが、今考えるとその時の“不安感”と大宰府でのそれとには、類似点があるのに気付いた。
では、それは何か?訊かれてもはっきり言葉に表せないが、強いて言えば卑俗な言葉だが〈血が騒ぐ〉と言う形容が、ややそれに近いニュアンスを持つ。人間には、異状な環境とか状態におかれた時、常識では割切れない霊とか感(フィーリング)が働く場合があるのではあるまいか?
「地獄のオルフェ」というのが正式な曲名。グルックのギリシャ神話の悲劇を題材にした「オルフェオとエウディーチェ」を、当時の世相を風刺してパロディ化し「喜歌劇」に仕立て直したものです。初演は1858年10月20日、これが多いに受けて、なんと228回にも及ぶ連続興行となったとか。序曲は原作にありませんでしたが、後に1860年ウィーンで初演時にカール・ビンダーが劇中の音楽を抜粋して作ったものです。KMCでも比較的演奏される回数の多いナンバーとなっています。華やかなオープニングに続いて、クラリネットのすこしアクロバット風な、そう、サーカスの小屋の上のほうで踊っている空中ブランコが揺れるように、危うくもセーフという感じのソロを経て、しっとりとしたメロディがマンドラとフルートで歌われます。深呼吸してたっぷりと歌われます。引き続き嵐を思わせるような激しい場面。稲妻がぴかぴか光って荒れ狂います。しかしにわか雨は通り雨、あっと言う間に通りすぎてしまいます。すると今度はマンドリンが優雅なカデンツを披露。やがて、ワルツ調の愛らしい旋律を奏でます。このメロディはいいですね。なんていうか、可憐な感じです。大勢のなかにぽつんと佇んで、ほろほろと泣き崩れてしまうようでもあります。そんなときは無言でそっとハンカチを置きましょう。悔しいときだってある、悲しいこともあるだろう。でも、世の中はそんなに捨てたものでもない。きっといい日もやってくるに違いない。そんな日を待ちこがれていよう。そう、前を向いて歩いていこう。そんな慰めに満ちているようです。その思いはやがておおきな潮流となりクライマックスを築きます。あぁ、音楽をやっていて良かったなぁと思う瞬間です!最後はみなさんおなじみの「3時のおやつは文明堂」の音楽「カンカン踊り」となります。これ聴くと、それこそよく運動会で鳴っていましたので、闘争心のようなものが自ずとこみ上げてきて、なんとなくそわそわしてしまいます。「走っちゃだめ!」などという言葉は通じないでしょう。もう、あとはみなさんの思うがままです!
KMCでは華やかなワルツをよく演奏しました。この「悲しきワルツ」は、例えばシュトラウスのワルツと比べてみても、かなり趣を異にしています。物憂い気分っていうのでしょうか。行き場のないような、どんよりと憂鬱な気分が基調となっています。音楽は短調と長調をいったり来たりして、あてもなく彷徨います。「天国と地獄」を演奏した後でこの曲を演奏したら、その落差というか、コントラストというか、メリハリというか、真逆の世界、異次元空間にスリップしたみたいになってしまうかもしれません。この曲の魅力といえば、もちろんそのメランコリックなメロディにあるわけですが、ほのかな希望や憧れといったものが行き交うところにあります。やがて感情が高まり、荒れ狂うようになったと思うと、最後はすうっと何処かに消え失せてしまう。誠に劇的な音楽となっています。この感情の移ろいこそこの曲の魅力に違いありません。
シベリウスが作曲したこの曲は、「クオレマ」という6つの場面で構成される劇のために書かれた音楽とのことです。「クオレマ」とはフィンランド語で「死」という意味だそうです。このワルツはその第一場の物語を表しているのだそうです。その物語とはつぎのようなものです。
「まだ幼い息子が見守るなか、若い母親が死の床についている。うなされながら母は夢を見る。夢には大勢の踊り子が現れ、静かに踊りはじめた。思わず彼女はその中に加わると、舞台は徐々に明るくなり生気を帯びて鮮やかになっていく。ひとしきり踊ってぐったりとすると、音楽は止み、踊り子たちは消えうせてしまう。彼女は一人ぽつんと取り残されてしまう。夢から覚めた彼女は、踊りのことが忘れられず、ふたたび踊り始める。すると再び踊り子たちが現れ活気に満ちていくが、突然、家の扉が何ものかに三回ノックされて遮られる。扉を開けると、そこには彼女の亡き夫に扮した死神が立っていた。
「マイ・フェア・レディ」の初演は1956年3月。そのときのヒロインはジュリー・アンドリュースさん。1964年には映画化されて、そのときのヒロインはオードリー・ヘップバーンでした。この間公演中だった日本の「マイ・フェア・レディ」の主役は宝塚出身の霧矢大夢さんと真飛聖さんのダブルキャスト。歴代のイライザ役を辿ってみると江利チエミさん、那智わたるさん、上月晃さん、雪村いずみさん、栗原小巻さん、大池真央さんという蒼々たるメンバー。マンクラのプリマドンナは、もちろん手島由起子さんです! ウィキペディアには興味深い記載がありましたので、抜粋しておきます。
My Fair Lady(マイ・フェア・レディ)のタイトルは、Mayfair lady(メイフェア・レディ)をコックニー訛りで表現してもじったもの。メイフェアとは、昔は閑静な住宅地、今は高級店がならぶロンドンの地区の名称。原作のPygmalionは『ピグマリオン』とカタカナ表記されるが、英語で発音するときはなまって『ピグメイリオン』なので要注意。fairは「美しい、色白の、金髪の、金髪で色白の」といった形容詞で、皮肉として「口先だけの、うわべだけの」といった意味も持つ。ここでは日本語でしばしば用いられる慣用語での「フェア(公平・公正)」といったニュアンスはさほど観照しない。
今回、「マイ・フェア・レディ」をやることになったきっかけは、楽友三田会合唱団からのお誘いにありました。今年の楽友三田会合唱団の定期演奏会で「マイ・フェア・レディ」をとりあげることになっていて、前回「メリーウィドウ」に出演いただいたときは、先方の定期演奏会のプログラムにプラスしての練習が負担だったとのことで、もし、自分たちの演奏会でもやる演目を一緒にやれたらみんなでKMCにも参加できるだろうとの申し入れがありました。こちらは当初はイタリアの何かオペラの抜粋でもやろうかと考案中でしたが、「マイ・フェア・レディ」はなんといっても痛快で楽しい演目なので、KMCの演目としてもぴったりではないかと思わず意気投合してしまいました。「踊り明かそう」はKMCの演奏旅行でも度々演奏していましたので、馴染みもありました。後日、楽友三田会の単独の練習を聴きに伺ったところ、さすが普段は宗教音楽などを丹念に歌い込まれているだけのこともあって、その優雅な歌声のハーモニーに思わずうっとりしてしまいました。思えば、KMCと楽友会は、学生の頃はほとんど交流がありませんでしたが、ここのところすっかり共演の機会も増えて同じ慶應の同窓という絆でこのような機会に発展したことを、ほんとうにかけがえのないことだと思っています。今回はKMC有志で楽友三田会合唱団の定期公演にも出演させていただき、同じ曲を演奏することになっています。是非、みなさん楽友三田会合唱団の演奏会にもお越しいただければと思います。
楽友三田会合唱団 第21回定期演奏会
2013年11月17日(日)午後2時 第一生命ホール
演目予定: J.S.Bachの小ミサ曲 ヘ長調(BWV233)、ミュージカル「マイ・フェア・レディ」より、混声合唱とピアノのための 花に寄せて(新実 徳英)
日付 | 種別 | 時間 | 場所 |
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5月25日(土) | 決起集会 | 17:00~19:00 | 東京オペラシティ 18F「イーストキャラバン」 |
6月9日(日) | 練習 | 東京オペラシティ リハーサルルーム | |
6月22日(土) | 練習 | 東京オペラシティ リハーサルルーム | |
7月7日(日) | 練習 | 東京オペラシティ リハーサルルーム | |
7月13日(土) | 練習 | 東京オペラシティ リハーサルルーム | |
7月20日(土) | 練習 | 東京オペラシティ リハーサルルーム | |
8月4日(日) | 練習 | 未定 | |
8月10日(土) | 練習 | 東京オペラシティ リハーサルルーム | |
8月11日(日) | 練習 | 東京オペラシティ リハーサルルーム | |
8月17日(土) | 練習 | 未定 | |
8月18日(日) | 本番 | 14:00開演 | 東京オペラシティ「タケミツ メモリアル」ホール |