音楽する事はたのしい。だからこそ皆さんはK・M・Cをつくっている。私も皆さんと合奏をしたい。心からそう思う。 しかし美しい音を出す事が何故たのしいのか、考えてみるとよくわからない。 私が今から20数年前疑問に思った事が、今頃になって少しわかって来たような気がして来た。 演奏する事自体が人間生活、或は人間存在そのものを表現しているのかもしれない。 余り飛躍してわけわからなくなったが、演奏という身体現象には常に意思がはたらいている。 しかしそれだけでは良い演奏にならない。魂が無意識のうちに創造を行なった時立派な芸術が生れる。 ギリシャ人の教育理念「カロカガティ」(善美一致)が音楽するという行為の内に在ると思う。 頭がいたくなった。たのしく合奏し、そして聴きましょう。それが人格の形成に役立つのだから。 成功を心から祈ります。
KMC―慶應義塾大学公認学生団体マンドリンクラブOB 吉田雅夫(東京芸術大学教授)
<1963年(昭和38年)6月「第90回定期演奏会」プログラム冊子掲載>
私はフルート吹きである。それなのに私の六年間の塾生活はK.M.Cを抜きにしては考えられない。 毎日K.M.Cの部室への出勤であった。 練習の時も私のフルートの「A」が調律の為に絶対必要なのである。責任があった。 当時フルート吹きは今のように沢山いない。私一人であった。 欠席は出来ない。演奏すれば全てソロである。自分のミスは仲間に大きな迷惑を与える。 私はK.M.Cの生活で「責任感」を学んだ。 私は授業に出なくても、部室に顔を出した。 これはK.M.Cの素晴らしい雰囲気、兄弟のような愛情、信頼感、そして音楽を通じての「人間愛」といったようなものがあったからだと思う。 K.M.Cの部員である友達が出征し、戦死をし、国内でも爆撃で大怪我をした友達が出た時私が感じた心の痛みは異常に大きかった。 今だに心の傷になっている。 青春時代の深い心のつながり、それがK.M.Cの仲間にあった。 この精神的な連帯感こそ60年の歴史の根底にあるものだと思う。
プレクトラム系の音楽には独特の温か味がある。このことはイタリーへ行った時、あらためて認識した。 他の音楽にはない庶民的な味である。 この音楽に対する近親感は、日本民族が最も深く感じるのではないかと思っている。 このプレクトラム系の音楽の代表的な団体であるK.M.Cが、今後もその輝かしい長い伝統の上に独自の道を歩み、 他に例のないその音楽の美しさを探求して行くべきた、同時にその温い音楽を通じて人間的な心のつながりを深くして行きたいものだと思う。
K.M.C O.B 吉田雅夫(芸大教授)
<1970年(昭和45年)11月「第105回定期演奏会」プログラム冊子掲載>