KMC百年史余話(後編)
~センセイとケムシ仲間(昭和・平成編)~
荻原 正弘(昭和36卒OB)

(昨年の創部100年前年祭プログラムに、百年史余話前編として創成期の田中常彦・宮田政夫時代の「毛虫達の青春(明治・大正編)」を書かせて頂いたが、後編として、昭和に入り長きに渡る指導を務めKMC―慶應義塾大学公認学生団体マンドリンクラブの確固たる土台を作り上げた、あだ名センセイこと服部正先生時代のエピソードの一端をここに披露する。)


KMC―慶應義塾大学公認学生団体マンドリンクラブがその歴史と伝統を守り、今日まで日本マンドリン界の代表的合奏団の一つとして活躍してきたことは、学生時代に指揮者となり、卒業後もプロの音楽家の道を歩みながらもKMCの仲間そして指揮者として65年の長きに渡り指導をしてこられた服部正先生の貢献なくしてはありえなかったことである。

センセイは卒業2年前の昭和4年に指揮者に抜擢されたが、指揮をするためにはメンバーの人望を得なければならない。そのため楽譜の整備、演奏会の準備、資金獲得のための楽団売り込みをせねばならず、丁度そのころ堀内敬三作詩の応援歌「若き血」が出来たときでもあったので、それを慶應のテ-マとし、早稲田大学校歌との2つのテーマを戦わせて、最後に盛大なるフィナーレで慶應の勝利を謳うという「早慶戦幻想曲」を作曲した。これを校内で発表したところ大評判となり、その成功に気をよくしてこの曲をオデオン・レコードに売り込みクラブの資金かせぎとした。それに続いてどこから聞いたのかセンセイのところにポリドール・レコードから当時バンジョー独奏でよく売れていた「レッド・ウィング」の日本盤製作の仕事が持ち込まれた。服部正編曲・KMC演奏の「赤い翼」は青年詩人サトウ・ハチローの歌詞も付き大ヒットとなった。

また昭和5年に行なわれたオルケストラ・シムフォニカ・タケヰ(OST)の第3回マンドリン合奏曲作曲コンコルソに、センセイの処女作ともいえる「叙情的風景」を応募したところ、一、二等なしの三等に入選した。音楽の基礎を何も知らずに自分の感覚だけで書いた作品が入賞したということに興奮した22歳のセンセイは、その時音楽家への道を胸に描き、早速にOSTの指揮者であり当時の楽壇で現代音楽および管弦楽法に通暁していると言われた菅原明朗氏に師事することになった。しかし銀行員で堅物の父上は音楽家への道を許すべくもなく、昭和6年の卒業後は既定の生命保険会社に就職したが、菅原氏の服部家へ乗り込んでの説得もあり、わずか40日で会社を辞め音楽の道に進む事になった。

なお、昭和2年に作られ、塾生・塾員が早慶戦など特別な勝利の祝賀のときにのみ歌い上げる心に染み入る牧歌的応援歌「丘の上」は、青柳瑞穂作詩、菅原明朗作曲である。


センセイの少し後輩で同時期に現れたのが、KMC史上まれにみる天才的マンドリン奏者とうたわれた高久肇である。卒業後はプロのスタジオ・ミュージシャンとして数多くのSPレコードも残しているが、卒業後も長いことKMC定期演奏会のコンサートマスターを務め、オリジナル独奏曲やチゴイネルワイゼン演奏のステージを持ち、昭和35年に50代で夭逝されるまでKMCのマンドリン指導者であった。いつも名器エンベルガーを入れた皮製ケースを小脇に抱えての長身の姿が印象的であった。酒豪としても名を馳せ、どんなにベロベロでも録音になれば決して間違えることなく名演奏をしたという平手造酒であった。

日本における一流フルート奏者といわれる人は、どういうわけか慶應義塾出身者が多い。現日本フルート協会会長峰岸壮一、天才といわれ25歳の若さでモンブランに消えた加藤恕彦、現在若手No.1と評判の理工学部生小山裕幾、その他数多くのプロの慶應ボーイがいる。中でも日本のフルート吹きの殆どはこの人の弟子もしくは孫弟子だといわれている日本フルート界の父、皆からFさんと呼ばれていた男は、昭和13年に我らが毛虫仲間からで蝶となって飛び立った吉田雅夫である。学生時代からあだ名をエフと呼ばれていたが、これは誰しもが思うフルートのFではないのである。夏の合宿を葉山でやったことがあるが、Fというあだ名はそこでついた。吉田氏はFの形のバンソウコウを肌に貼り付けて日光浴をしていた。そのころは自分の好きな女の子のイニシャルをそうやってつけるのが流行っており、当時の宝塚のスター何とかフジ子にほれ込んでいたのである。さらにおかしな事に彼は富士子さんという名の奥様をもらった。


クラブ生活の楽しみの一つに演奏旅行がある。戦後は昭和25年ごろから各地の三田会や慶應学生会の招聘により、毎年春休みは西日本の中部、関西、四国から九州にかけて、夏休みは東日本の東北から北海道にかけて約1~2週間のツアーが行なわれた。

暗闇の演奏事件が起こったのは、昭和31年春九州の炭鉱町飯塚市での演奏会で「若き血」を始めた途端に停電となり真っ暗、そして演奏を続け弾き終わるころ電気が付いた。この話を聞いていた後輩が、定演のアンコールでよく弾かれていた「エスパニア・カーニ」を暗闇演奏でやろうということになり、昭和34年の定演で暗闇の中に先端が光る指揮棒を作り、突如電気を消して演奏をした。これが拍手大喝采となり、その後恒例の暗闇エンディング演奏となった。

その頃ラジオの人気番組に「東京六大学音楽リーグ戦」があった。このバンド合戦で各校の代表として演奏するのは、慶應はジャズバンド、早稲田はアルゼンチンタンゴ、法政はカントリー、立教はハワイアン、東大はモダンジャズ、そして明大はマンドリンクラブとほぼ決まっていた。戦前より古賀メロディなど大衆音楽を演奏する「古賀政男と明大マンドリンクラブ」は大変有名だったので、誰しもが「私はマンドリンをやっています」というと、「明大のご出身ですか?」といわれて「違います。慶應です!」。

人気の学生バンド合戦は全国で地方公演も行いそれが生放送されたが、昭和34年春休みに金沢市でマンドリンクラブ対決の慶明戦があり、各地より部員が金沢に集まった。合戦は明大の先行で演奏開始、司会者は「日本一のマンドリンクラブ、明大マンドリンクラブ」と紹介した。続いてのKMCを何と紹介するのかと思っていたら「世界一のマンドリンクラブ、慶應マンドリンクラブ!」。


昭和37年(1962)に全日本学生マンドリン連盟(全マン連)が結成され、翌1963年に全マン連主催のアメリカ演奏旅行が慶應、同志社、関西学院を中心に12大学45名により行なわれた。それをきっかけにKMCは以後1990年まで単独アメリカ演奏旅行を8回行ない、オーストラリア、マレーシア、台湾にも出かけ、これによりまさにWorld famous mandolin orchestra として世界中に知れ渡ったのである。1984年のマレーシア演奏旅行にはOBも多数参加したが、丁度この時中曽根康弘首相以下政府首脳陣が、マハティ-ル首相とのトップ会談を依頼し首都クアラルンプールに来ていた。経済問題を中心にかなり悪化した状態にある日マ関係を修復する目的であった。

KMCの演奏会は首脳会談の予定日と同日であったが、大の音楽ファンであられるマハティール首相夫人をご招待していた。夕刻からのコンサートはマレーシア三田会の主催により全員招待で盛大に行なわれようとしていたが、その時何らかの理由でマハティール首相は首脳会談出席を突如キャンセルしたらしいとのニュースが流れた。ところがなんとそのマハティール氏は夫人と同伴でKMCの演奏会に姿を見せたのである。コンサートは大成功であった。

翌日、日本大使館は、日本とマレーシアの親善関係をKMCが救世主として守ってくれたと大喜びで、大使館にセンセイとケムシ仲間を全員招待してくれてディナー・パーティーを開いてくれた。勿論マハティール夫人も出席され、マレ-シア三田会の連中もKMCに感謝感謝!の一日であった。


KMC常任指揮者服部正先生の最後のステージは、センセイが85歳になられた平成5年の第150回記念定期演奏会であった。75歳になられるまでは定演の棒はすべてセンセイが振ってこられたが、さすが年齢と共に足腰も弱って来られ、その後の定演は学生指揮者が半分振ることになった。センセイはその頃から、颯爽と舞台に現れ時々ズボンを吊り上げて指揮をする癖も少なくなり、なんとなく足元がおぼつかなくなってきていた。しかし、ご自分のほうからそろそろ引退をというような言葉は決して出されないだろうと皆が思っていた。そこで立派な引退公演でセンセイを送り出す為に、OB幹事会は平成に入った頃より、その時期、場所、演出内容を討議していた。丁度その頃東京都により客席数2000席の大ホール東京芸術劇場がオープンした。定演もいよいよ150回になる。これだ!ということで内容も「服部正とKMC」を企画し一時間にわたりタップリと指揮をしていただこう、ただ場合によると舞台で倒れられるようなことも起こりうるということで、KMC技術委員長をしていた昭和32年卒の上野隆司がギタートップ・サイドに座り、いざとなったら飛び出して代わりに棒を振るという準備までしていたのである。しかし、先生の作品「海に寄せる三楽章」や「海の少女」、お得意のヨハン・シュトラウスⅡのポルカやワルツを長時間にわたり見事に棒を振り切り、最高の引退公演になったのである。センセイ万歳!ケムシ万歳!であった。

(2010年6月「創部100年記念コンサート」プログラム冊子掲載)