KMC百年史余話(前編)
~毛虫達の青春(明治・大正編)~
荻原 正弘(昭和36卒OB)

慶應義塾マンドリンクラブ(KMC)は明治43年(1910)若き精鋭田中常彦により創部された。
その後、宮田政夫、服部正の二人の大指導者に引き継がれ、特に昨年8月齢百歳にして天命を全うされた服部正先生は、昭和4年(1929)より65年間におよび指揮者として君臨され、慶応義塾マンドリンクラブの象徴として今日のKMC王国を築き上げた大恩人である。

服部先生が指導者になられた昭和の時代に入って以降の活動・功績は、別掲載の服部正先生年譜を参照して戴ければ大方の流れが分かるので、ここではそれ以前の草創期の頃の話をしたい。


KMCは来る2010年創部100周年を迎えるのであるが、実は1910年より前にすでにクラブは一度設立されていた。1908年(明治41年)慶応義塾の予科に入学した田中常彦は、入学以前からヴァイオリンの心得があり、またマンドリンも独習で練習に務めておりかなりの腕になっていた。氏は中学の頃から絵が好きで入学すると直ぐにパレットクラブに入会した。その会の幹事をしていた牟田口という先輩が、日本最初のマンドリン教師比留間賢八氏の門下生であった。また別の友人から借りて何かと得る所があったユーレカのマンドリン教則本には沢山の曲が載っていた。そこで相談してマンドリン同好会部員募集をしたところ、他にも比留間氏の教えを受けていた学生がおり、集まってきた塾生数名と教授も加わり持寄った楽譜により合奏練習を始めた。しかし、「しっかりした指導者がいるわけでもなく、集まった人は何れも比留間氏の教えを受けた人達であって私の弾き方とは余程異なっていた。一方ではスタッカート、片方ではトレモロ、合わぬテンポ、上級のメンバーと凡てが不調であった。無力な新参の私にはもはや打つべき手もなく、練習は数回で終わった。」と田中氏は述べている。

合奏アンサンブル結成を諦めていた氏が本科の学生になった1910年、英語会(KESS)のある会合の席上、余興を頼まれてマンドリンを弾いた。高度な技術を持つ氏の演奏は大好評を得、このマンドリンの音に魅せられて教えてくれという学生が現れた。のちにKMCの名手として鳴らした内田寅夫氏の長兄敏郎氏であった。この良き協力者の熱心な呼びかけもあり、再びクラブ設立の夢を持って二人は協力して部員を募った結果10人ほどが集まり、この明治43年に正式にKMCが創立された。とはいえ弾ける人はともかく、只マンドリンが好きだという単純な気持ちの人ばかりが手ぶらで集まったのだからクラブの前途は多難なものであった。

学内で細々と合奏を楽しんでいる時、KMC創立の事が横浜の英字新聞、The Japan Weekly Gazetteに載り、それを見た横浜バンジョークラブを組織していた豪州人John Gorman氏が、しばしばバンジョーを携えて三田の山を訪れた。入手困難であった楽譜も英米物を中心に提供され、塾生たちと親交を深めた。

こうして徐々に腕を上げていったクラブに、翌明治44年秋一大吉報がもたらされるのである。 上海演奏旅行をしていたあるイタリア歌劇団のテナー歌手Adolfo Sarcoliなるイタリア人が飄然と東京に現れた。その頃日本の洋楽会は黎明期であったので彼の一声は忽ちセンセーションを起こした。サルコリ氏はその後昭和11年に日本で亡くなるまで日本オペラ界の発展に尽くされたベル・カントの名手で、帝劇オペラで三浦環や清水金太郎と共演、原信子や関谷敏子を育てた。

このアドルフォ・サルコリ氏は若い頃声楽家を志す以前、シエナ生まれのマンドリン、ギターの名手として活躍し、フィレンツェの皇室マンドリン合奏団チルコロ・レジーナ・マルゲリータの指揮者もしていたイタリアマンドリン界の大家であった。ある時演奏会のアンコールに答えて彼はマンドリンを提げて現れ、自作の無伴奏曲を弾いた。これは大変な評判を呼び、彼の熱情的な力強い歌声とは対照的に、一つのマンドリンで繊細な感じのセレナータを奏でた。またある時は礼奏としてギターも演奏した。当時はマイクもなく指で弾いては弱いのでピックを使ってパガニーニや自作の曲を弾いた。当時の人達はギター・ソロがあることは知っていたが、マンドリンの伴奏楽器としてしか聴いたことがなく、ギター独奏を耳にしたのはこの時が初めてであった。

このようにしてサルコリ氏のテナーの名声の陰に隠れていたマンドリンとギターにその愛好者は注視することになり、「私もこの時から彼に会って、親しく彼の教えを受け、奏法を研究したいという切な願いを抱くようになった」。そしていよいよ運命の出会いの日が訪れた。「私がサルコリに初めて会ったのは、築地の海軍大学で催されたある園遊会の日であった。私は海軍軍楽隊の演奏を聴きに行ったのであったが、サルコリもそこに来ていた。写譜や出版をし、音楽界にも知合の多い友人の妹尾幸陽は、私をマンドリン奏者として彼に紹介して呉れた。私がマンドリンを弾くと聞かされて大変喜び、大きな手を差出して笑を浮かべながらマンドリンを弾くのかと、念を押すように聞き返した」。日本にマンドリン奏者などいないと思っていた彼は、会が終わりかけた時、突然自分の家まで一緒に来ないかと田中氏を誘い、家に着くと早速にギターを取り出し、田中にマンドリンを与えて合奏を楽しんだ。またマンドリンで自作の無伴奏曲を弾きながら、三連音や重音奏法の効果など数え切れぬ弾き方のあること、同時にラテン音楽の素晴らしい雰囲気を伝えた。そして、もしマンドリンを弾く仲間が他にもいるのなら明日にでも皆を誘ってこいということで、毛虫仲間達は本場イタリアの正統派マンドリン音楽の師サルコリ氏に指導を仰ぐことになったのである。


このようにして二人の指導者を得たKMCは、明治45年(1912)5月25日、初めての演奏会をゴーマン氏率いる横浜バンジョーズとの共演により横浜フェリス女学院のヴァンシャイックホールにて行い、引き続いて6月23日に東京YMCAホール(神田青年会館)において、サルコリ氏の友人の外国人音楽家との共演により大音楽会を開催した。

翌大正2年(1913)の田中氏の卒業と共に第一期の部員も多くが卒業してしまったので、新米ばかりの現役KMCは田中氏の指導により学内で細々と演奏活動は続けていたが、田中氏と毛虫仲間は慶應の新旧学生により名付けた東京マンドリン倶楽部の名の下に、サルコリ氏と共に多くの一般の音楽会に出演し、また日本各地への演奏旅行も行なった。このころから田中氏は演奏会においてマンドリン独奏を始めるようになり、当初はサルコリ氏のギター伴奏、その後はピアノ伴奏により、次々とマンドリン独奏曲を初演紹介していった。 そして田中氏指導のKMCの後輩たちの中からも内田寅夫、宮田政夫、加納徳三郎などの優秀なマンドリニストが育っていった。


ちなみに大正5年に発足したシンフォニア・マンドリーニ・オルケストラ(SMO)は、ギターを弾かれた宮内庁の武井守成男爵が呼びかけ田中常彦氏と共に結成した合奏団であるが、やはり慶應出身の毛虫達が中心であった。後にオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ(OST)と改称し、日本のマンドリン史発展の大きな柱になった。

また大正初期に存在した関東のマンドリン合奏団は、他に横浜マンドリンソサエティー、前橋ゴンドラマンドリンクラブ [ゴンドラ洋楽会]、YMCAマンドリンクラブがあったが、横浜は慶應の英語教授イーストレーキ氏が主宰するものであり、前橋は日本近代詩の創始者といわれる萩原朔太郎が主宰し、大正5年に第1回演奏会を開催したクラブである。萩原朔太郎は詩人として売り出す前に音楽家の道を探っており、24歳の明治43年より東京に滞在、44年2月より3カ月ほど比留間賢八氏に付いてマンドリンを習い、何とその5月には慶応義塾大学予科に入学し、そこで田中常彦氏にマンドリンの師事を受けたが11月には退学してしまった。翌大正2年前橋に帰ってから詩の製作にはげむが、再び大正4年に上京しギターを習い、作曲、編曲も行い音楽の道を続けた。


田中常彦は本格的なマンドリン独奏家を目指してサルトリ氏の紹介によるイタリア留学を志し、大正9年7月ナポリへと向かった。4年間のイタリア留学を終え大正13年5月には帰朝したが、昭和2年7月後輩のギタリスト月村嘉孝氏と共に再びイタリア留学に向かった。こうして田中常彦は日本最初のプロのマンドリン演奏家になったのである。田中氏は戦後結成された日本マンドリン連盟の初代会長であったが、昭和50年(1975)齢85歳にて他界された。

田中常彦がイタリア留学へと向かった以後、KMCはマンドリン独奏者として後輩の内田寅夫、宮田政夫、ギター独奏として月村嘉隆達が常にステージ演奏を行なった。大正11年からは指揮も宮田政夫が行なうようになり、卒業後もその熱心な指導のもと意欲的な作品を次々と取り上げKMCの評判は不動の物になっていった。宮田政夫は指揮に、マンドリン独奏に、作曲・編曲にと大活躍をし、天才と謳われた。


この時期の大正9年予科の学生であった作家石坂洋次郎は、一時期KMCに属しており演奏会にも出演しているが、大正10年夏弘前への帰郷時に近くに住む木村弦三にマンドリンを教え、翌11年二人で共にマンドリナータ・ディ・ヒロサキを創立した。彼がマンドリンクラブに入ることになったきっかけとして面白い逸話が残っている。

「じつは私は、マンドリンクラブではなく、ワグネルソサエテーに入って声楽をやりたかったのである。声のテストをするからホールに来るように云われ、行ってみると指揮者の大塚淳先生が、7、8人の幹部級の学生達と、コーラスの練習をしておられたが、私を紹介されると、「それじゃあ試してみようかね。君、オタマジャクシを知ってるね」「はい、知っています」と、私は固くなって答えた。「じゃあ、やってみたまえ。・・・・・・はい!」。
私は胸を張って、ふるえる声で、そのころ小学校の唱歌で必ず教わる「おたまじゃくし」の歌をうたい出した。<おたまじゃくしはまっくろで 頭はまあるく尾は長く 手足は太いのにピョンピョンと・・・・・> うたい出して間もなく、大塚先生はピアノの伴奏をやめ、学生達は跳ねたり肩をたたき合ったりして爆笑した。オレの声はそんなに奇妙なのかなあ・・・・・と、私も工合がわるくなって唄うのをやめた。「君ィ、君ィ、困るね。オタマジャクシというのは楽符のことだよ」と大塚先生は呆れ果てたような面持でいわれた。私は死にたいほど恥ずかしかった。それで、ふんぜんとしてワグネルソサエテーに見きりをつけマンドリンクラブに加入させてもらったのである。」


この大正11年には少人数ながらなかなかの演奏をした東京プレクトラムソサエティー(TPS)なる合奏団が第1回の演奏会を開催しているが、これは慶應の学生であったマンドリン弾きの小池正夫、ギター弾きの内木清次がKMCに入部し春季大演奏会にも出演したのだが、小池正夫はかなりの腕を持っていたので独奏をさせて欲しい旨要望を出した。しかし宮田は入部したばかりの新入生に独奏のステージなど与えられないとして断った為すぐに退部をしてしまい、内木清次がリーダーとなり他の慶應の仲間であった高橋三男や大場幸夫等と共に結成したグループであった。この頃慶應の塾生で山岳部に属していた音楽好きの鈴木静一もKMCの演奏を聴いていたが、彼は声楽がやりたくてサルコリの門を叩いていた。しかしサルコリからおまえは歌よりもマンドリンをやれといわれ熱心に師事をした。その後慶應を中退して、マンドリン独奏家、また作曲家として活躍し、東京プレクトラムソサエティーや東京マンドリン協会の指揮者にもなった。


大正12年1月21日、武井守成男爵率いるOST主催による、第1回マンドリン・オーケストラ・コンコルソが帝国ホテルにおいて開催された。全国から7団体が集まり覇を競ったのであるが、誰しもが慶應の優勝間違いなしと見ていたところ、コンクール直前に指揮者の宮田政夫が病に倒れ、急遽、トップの内田寅夫が指揮に回り、加納徳三郎がコンサートマスターを務めた。結果は、僅差で京都より参加した同志社大学マンドリンクラブ(SMD)が第一位となった。

宮田は結核に侵されておりまわりの人から心配されていたが、ついに不幸にも昭和2年ふたたび胸の病に倒れ、湘南逗子での療養生活に入ってしまった。


大正13年卒業の内田寅夫氏は生前80歳の時インタヴューに答えてこのような話をしてくれた。

「マンドリンを始めたきっかけは、サルコリ氏が指導の頃長兄の敏郎が田中常彦氏と一緒にやっていた関係です。私の頃の中心は宮田政夫君でとても熱心でした。むしろそれは悲愴な位でレギュラーオーケストラになぐりこみをかけるいきおいでした。勿論慶應ではKMCが一番人気はあったし、マンドリン界では常にOSTと覇をきそってました。所で大正9年頃新音楽協会というのが主催して、芸大の奏楽堂で田中、宮田、加納各氏と共にクァルテットをやりました。当時音楽学校のステージでマンドリンをやらせたというのは画期的なことでした。宮田君のマンドリン音楽に対する信頼度はすごいものでしたが、私はやや懐疑的であり、ヴァイオリン曲に比較して聴衆を本当に楽しませる事ができる曲はどのくらいあるのか、いくらやっても駄目なのではないかと思ってました。しかし宮田君は、こちらが一生懸命弾けば客は必ずついてくるという論でした。そんな宮田君には結局皆が集まってくる情熱的指導力がありました。田中常彦氏は衆をまとめて率いるというようなわずらわしい事はされませんでした。二人の弾き方も対照的で、トレモロは田中氏の方が柔らかいようでしたが何か句読点がないような一寸けじめのない弾き方で、反対に宮田氏の方ははっきりとした実に技巧的な弾き方をしました。大正11年にKMCに1回だけ出てすぐやめている東京プレクトラムソサエティを組織した内木清次氏や小池正夫氏は、大勢に迎合するのはいやで芸術を自由奔放にやりたかったのではないでしょうか。新しく入ってすぐソロをやるというわけにはいきませんでしたからね。当時早稲田の人で戦後皇太子(現天皇)にギターを教えられた小倉俊氏がいましたが、彼はまるでKMCの仲間でした。おとなしいまじめな学究の徒でしたがKMCが売り出してあげたんです。地味で丁寧な弾き方でした。一方KMCのギターの大御所月村嘉孝氏は、対照的にぐっと明るい派手な弾き方でした。
 所で私はダンスを少しやっておりまして、銀座に菅原電機という老舗があり、その息子達にダンスを教えておりました。その家へどんな関係か中村勘三郎(七代目)がよく来ており一緒に教えました。そんな関係から出た話と思いますが、一度歌舞伎の裏で囃子方としてマンドリンをやったことがあるんです。マンドリンだけで悲しげな情景をやったんです。新機軸を出そうとしたんでしょう。しかし音が小さくて響かなくて効果的ではないという事で一ぺんだけでやめになりました。恐らく歌舞伎の歴史でマンドリンを使ったのは後にも先にもその時だけでしょう」。


作家の谷崎潤一郎は、彼の主作品の一つ「痴人の愛」に、ナオミの友達でダンスのうまい浜田というKMCの学生や毛虫連中の事を書いている。何らかの付き合いがあったのであろうか。

[ナオミの音楽の先生である杉崎春枝女史が夫人(モデルは日本バレエ界の恩人で亡命ロシア人のバレリーナ、エリアナ・パヴロバ。彼女は田中常彦氏が最初に養子入り結婚した澤静子の親友)のためにダンス倶楽部を組織し、そして幹事になったのがあの浜田と云う、慶応義塾の学生でした。稽古場に当てられたのは三田の聖坂にある、吉村という西洋楽器店(モデルは西新橋にあった楽器輸入会社の南欧商会。澤夫妻の経営でヴィナッチャの総代理店)の二階で・・・(中略)。ちょうど梯子段の上り口の所に、慶應の学生らしいのが五六人うじゃうじゃしていて、それがジリジロ私とナオミの様子を見るのが、あまり好い気持はしませんでしたが、「ナオミさん」と、その時馴れ馴れしい大きな声で、彼女を呼んだ者がありました。見ると今の学生の一人で、フラット・マンドリンと云うものでしょうか、平べったい、ちょっと日本の月琴のような楽器を小脇にかかえて、それの調子を合わせながら針金の絃をチリチリ鳴らしているのです。「今日はア」と、ナオミも女らしくない、書生ッぽのような口調で応じて「どうしたのまアちゃんは? あんたダンスをやらないの?」
「やあだア、己あ」と、そのまアちゃんと呼ばれた男はニヤニヤ笑ってマンドリンを棚の上に置きながら、「あんなもなあ己あ真っ平御免だ。第一お前、月謝を二十円も取るなんて、まるでたけえや」
・・(中略)。「ナオミちゃん、今下にいた学生たちは、ありゃ何だね?」と、私は彼女に導かれて梯子段を上がりながら尋ねました。「あれは慶応のマンドリン倶楽部のひとたちなの、口はぞんざいだけど、そんなに悪い人たちじゃないのよ」「みんなお前の友達なのかい」・・・・・・・・。]

まあちゃんこと宮田政夫は、マンドリン界すべての人達から惜しまれながら、昭和5年若干30歳にて夭逝した。療養中ふすま越しに四重奏を聴いてもらったことがある服部先生は、宮田さんは見てもいないのに「ドラを弾いている人、指使いが違うんじゃないの!」と怒られたそうだ。

(2009年8月「創部100年前年祭コンサート」プログラム冊子掲載)