昨2006年10月29日(日)近代詩の雄萩原朔太郎の生誕120年を記念して、朔太郎の生誕地前橋市が前橋マンドリンフェスタ2006を開催した。このイベントはマンドリン四重奏のコンク-ルを中心に据えて、中にはプロも数人混じった街角コンサート、地元並びに全国から招待されるマンドリンオーケストラ、そしてプロ・アマ混成で、朔太郎の始めたマンドリンクラブの名前を戴いたゴンドラ・マンドリンオーケストラ等の演奏が添えられたマンドリンのお祭である。今年はその第二回が10月7日(日)に開催され、私の主宰するオルケストラ“プレットロ”が昨年に引き続きご招待を受け、演奏する。この行事は我がKMCにも卒業生が入部し、活躍している、前橋女子高・館林女子高のマンドリンクラブを育て上げた両角文則氏が前橋市を動かして始まった我が国では珍しい地方自治体が主催するマンドリン音楽の貴重な行事である。マンドリン界で音楽を楽しんでいる我々としても出来る限りの応援をし、このフェスタが途絶えることなく続けられる事を期待すべきであろうと考えている。今年は生憎、参加を決定した後にオールKMCの日程が決まり、重なってしまったが、マンドリン界の牽引車であるべきKMCのOB・Gを主力メンバーに持つOPとしては、KMC内輪の行事は勿論の事だが、この様な各地での意義ある催しには積極的に協力して行くべきである、と言う考えの下に、敢えてオールKMCを欠席してでも参加する事にした。
さて、詩人萩原朔太郎は日本の口語詩の先達の一人であるが、同時に大変なマンドリン愛好家であった。明治24年(1891年)比留間賢八がマンドリンを日本に持ち帰った事は知られているが、その10年後、明治34年(1901年)再度の洋行から帰国した賢八はマンドリンの普及宣伝に力を入れ始め、演奏のレッスンはもとより、ヴァイオリン製作者鈴木政吉と共同で、マンドリン製造の研究を行い、1903年に日本製マンドリン第1号が製造発売された。萩原朔太郎は詩の創作活動を行う傍ら、マンドリンを賢八に習い、前橋に戻ってから前橋(後にゴンドラ)マンドリンクラブを設立した。マンドリン曲の作曲すらしており、如何に朔太郎がマンドリンを愛していたかが判り、前橋市が両角氏の強力な働きかけがあったからこそではあるが、郷土の偉人、詩人・マンドリニストの朔太郎の生誕を記念してマンドリン・フェスタを立ち上げるには十分な背景があった訳である。さて、賢八の長女として生まれた比留間きぬ子女史は1932年17歳で演奏教育活動を開始され、2002年87歳で他界されたが、弟子の中に朔太郎の娘さんの葉子さん、両角氏の師と聞いている東京宮田マンドリン楽団の故宮田俊一郎氏が居られる。KMCにも比留間きぬ子門下は昭和28年卒の大野智久(当時のコンマス)さんを初めとして、KMCの戦後最初の黄金時代のテープを切られた佐々木勝夫さん、佐々木さんの紹介で弟子入りした私等少なからず比留間門下が所属していた。つまり、朔太郎は佐々木先輩や私の伯父弟子(そんな言葉はないだろうが)、葉子さんは姉弟子さんと言う事になる。佐々木先輩も昨年に引き続き、OPのメンバーとしてこのフェスタに参加されるが、私が前橋マンドリン・フェスタに他の愛好者よりも親近感を抱いていたとしても、ご理解戴けると思う。少し横道にそれるが、かのサイトウ記念オーケストラで知られる斉藤秀雄氏はチェリスト、教育者として著名だが、初期の斉藤氏はマンドリンにも並々ならぬ興味を持ち、賢八氏のもとでマンドリンを習われた。作曲は5曲、編曲は16曲ほどしておられる(JMU資料より)。私も作曲の全曲、編曲の殆どの写しを所有しているので、興味のある方はお申し出戴ければ、お見せしたい。一頃は比留間マンドリン研究所の合奏の指揮・指導に来られたそうだが、私は未だ弟子ではなかった時代である。葉子さんとは、合奏でご一緒したことがある。そう言う縁もマンドリンを弾いて居たからこそ出来たものであり、前回の縁-1-に述べた弘前・青森との縁も含め、こう言う縁がどんどん出来、広がって行く事に幸せを感じるものである。